リレーエッセイ
順天堂練馬の外科系医師によるエッセイ:
妙手回春
第7回
泌尿器科 教授
武藤 智
百折不撓 
私は泌尿器科外科医である。泌尿器科医になってから約30年の間に泌尿器科手術は劇的な変遷を遂げた。私が研修医の頃は、腹腔鏡手術も立ち上がりの頃で、ほぼすべてが開腹手術であった。その後約10年前にロボット手術が登場し、あっという間に中心となってしまった。現在国内どこのグループでも開腹手術は年に10件も無いだろう。ロボット手術はそれだけ歴史が浅く、一部は未だ術式が確立していない。私が専門とする膀胱がんに対する膀胱全摘除術後の尿路変更術、特に新膀胱造設術もその一つである。回腸を遊離し球状に縫合して尿道および尿管と吻合するが、利用回腸が長い、縫合部位が長いなどの問題があり、未だglobalに認められた術式は存在せず、われわれも様々な工夫を日々凝らしている。昔から時々耳にする言葉だが、手術が上手い先生を「神の手」とか表現することがある。ただし、もし神様しかできないような術式であれば、これは手術ではない。十分な鍛錬を積んだ該当する疾患の専門医が、皆同じように結果を達成することができなければ手術とは言えない。ロボット支援新膀胱造設術の術式を確立するためには、十分な医学知識、空間認知能力、外科手技技術力を取得した多くの泌尿器外科医が均等な結果を得られることは必須である。将来を熟思洞察し、皆の衆智を集め、間然するところが無い術式を確立するために、百折不撓の思いで進んでいきたいと考えている。
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第6
回
心臓血管外科 科長・先任准教授
山本 平
この状況はまずい。今までにこんなことはなかった。
それでも容赦なく、神と呼ばれる天才心臓外科医の声が手術室に響く。
「集中しろ。厳しいのはわかる。でも お前にも見えているんだろう?」
今見えている手術の景色、それだけでなく術野に隠れている大事な景色も見えている。
それとも他に何かが見えるというのか。
この厳しい手術の状況だけではないのか?
この患者さんがこれまで生きてきた人生なのか?
患者さんを待つ家族の姿なのか?
この状況が乗り切れなかった時の家族の涙なのか?
それともここを乗り切った時の数年後の患者さんと家族の楽しそうな笑顔なのか?
心臓外科医は、うまくいった手術はすぐに忘れてしまう。
当たり前の手術として体は覚えるが、頭の中には何も記憶として残らない。
しかし、うまくいかなかった場面は、決して消えることなく過剰記憶として蓄積されていく。
その記憶ともに、患者さんの姿、家族の姿も焼き付いて刻印されていく。
これは、私たちの幼少期から何も変わらない。
病気や事故で亡くなった小学・中学・大学時代の友達・親類との最後の会話、最期のお別れ、その時にその場にいた御家族の姿、御家族との会話、すべて記憶され消えることがない。
仕事として医学を選び、外科医になっても何も変わらない。
このどうにもならない記憶が蓄積されていく。
「あの時、もう少し違っていれば」「あの時、もう一手あれば」と日々思い浮かんでは考える。この消えない記憶を乗り越えるために、本を読み、いろいろな事象を調べて、新たな治療や新たな手術をできるように準備をする。
すべては患者さんと家族の笑顔のために。
神と呼ばれる外科医から多くのことを教わった。
「俺は、ここで最大で最高の一手を打つ。お前も絶対ついてこい。逃げるなよ。」
この緊張した場面が終わると平穏な日々に戻る。
よくできた仕事は、すべて記憶から消えていく。
こんな経験を私は後輩達に伝えられているのであろうか。
自問自答の日々を過ごす。


妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第5 回
整形外科・スポーツ診療科 科長・教授
金 勝乾
バスケットボールの試合が行われているアリーナで一際歓声が上がった。ケガから復帰した選手が途中交代で数ヵ月ぶりに出場した時だ。自分が手術をしてずっと経過を見てきた選手が試合に復帰するのを見るのはスポーツ整形外科医として本当に感激する瞬間である。
整形外科医になりスポーツ整形外科を専門としてきた。縁があってプロバスケットボールチームのチームドクターをやることになったが、先輩からはスポーツに携わるなら現場に行かないとダメだ、そうでないとドクターに何が求められているかがわからないからと教わってきた。そうかな、まあそうだろうと平日の夜や土日に現場に足を運び続けた。子供が小さいうちは妻に文句を言われながら。(今はいないほうが気楽なようだが・・)
現場に行きチームに帯同することによって仲間として受け入れてもらえたのはうれしかった。そしていつもそばにいる医師がきちんと診断をして治療をして選手が復帰していくというプロセスを繰り返すことによって、選手やスタッフから頼ってもらえると感じられるようになり励みにもなった。自分が関わっているチームや選手が優勝したり何かを成し遂げたときにはみんなで喜びを分かち合うことが出来る。これはスポーツ整形外科医としての醍醐味だろう。
医師になり30年以上が過ぎたが、スポーツ医としての知識や技術はいまだ不足と感じる。まだまだ精進しなければいけないと今日も思う。
バスケットボールワールドカップ2019帯同
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第4回
耳鼻咽喉・頭頸科 科長・教授
角田 篤信
解剖は医学の基本ですが分子生物学など医学の先端からみると地味です。ひねくれ者の私は先端分野ではなくマクロ解剖に興味を持ち、臨床の合間に研究をしていました。
高位頸静脈球症という病気があります。病気というより、生まれつき鼓膜の奥の中耳というところに脳からの大きな静脈が突出する病態です。医者の2年目でその病気の患者さんをみて興味を持ち、研究を進めました。そこで分かったこと・・・そもそも頸静脈球という人類誰もが持っている構造は人間にしかありません。人間はかなり特徴的な頭部構造をしており、それが耳鼻咽喉科の病気や手術に影響することが分かってきました。
例えば耳垢除去は耳鼻咽喉科で毎日のように行いますが、おなじサルでも耳垢を取るのが非常に難しいサル(ヒヒなど)と、容易なサル(クモザルなど)に分かれます。ヒトは中くらいです。また鼻中隔湾曲症と言う鼻づまりを起こすありふれた病気があります。当院では毎週のように手術をしていますが、問題になるのはほぼ人間だけ。犬猫はもちろんサルでも起きません。オーストラロピテクスとかホモ・エレクトスという人達にも無かったと推定されます。進化の過程で脳(前頭葉)が発達したことが鼻中隔湾曲症の発症に関係していると推定されます。100万年後の人類はもっと鼻づまりで困っている可能性があります。元々耳鼻咽喉科は扱う範囲が広いのですが、こんなことも研究対象となる面白い科です。100万年後は花粉症シーズン以外でも耳鼻咽喉科が混雑しているかも知れません。

妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第3回
脳神経外科 科長・教授
菱井 誠人
「妙手回春」 “手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること”
凄腕でも敏腕でもない私が何を語れるであろうか。
ベッドに私をおいて帰る母を追いかけた病院の廊下。
病院の前の雑貨スーパーでブリキの玩具を父に買ってもらった日曜日。
最古の記憶の私は病院の中にいる。
幼少で気管支喘息を発症した私は病弱であった。いつしか、将来自分は医師になりたいと思うようになっていた。
脳神経外科医を志したのは、当時の脳神経外科教授 石井昌三先生に憧れたからであった。
病院に寝泊まりした研修医時代。異文化に出会い大きな影響を受けた米国留学。手術に明け暮れた大学病院での日々のなか、主任教授より新設される順天堂大学練馬病院へ赴任の打診があった。現役脳神経外科医としてのキャリアの丁度折り返し地点であった。
後輩医師と二人での脳神経外科の立ち上げ。大変であったが熱気にあふれた楽しい日々であった。スタッフも増員になり診療体制は安定していったが、あの頃の熱気は冷却していったように思う。私の意識も、挑戦から 継続と継承に変化していったようである。
つい先日、一人の患者さんが外来を訪れた。若き日に全力を尽くして治療した患者さんである。病気の再発であった。
しばし動揺した。あの頃の体力はない。治療も更に困難である。しかし万全の準備を行い、後輩の手も借りて、もう一度この患者さんの治療に向き合いたい。
医者がいて、患者さんがいるわけではない。
患者さんがいて、医者がいる。
妙手回春。私にとっての妙手は患者さんであった。
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第2回
院長補佐 / 総合外科・消化器外科 教授
須郷 広之
「変わったもの、変わらないもの」
外科医になって早くも32年が経ちます。この間、世の中の変化には凄まじいものがあります。インターネットが登場し黒電話はなくなり「ダイヤルを回す」も死語になりました。私の故郷ではゴールデンウィークに満開となる「弘前公園・桜まつり」が有名ですが、この30年で桜の開花は2週間早くなり、まさに地球温暖化を実感しています。
外科医を取り巻く環境も大きく変化しました。30年前、手術の美徳は「早さ」であり外科医のイメージは「豪放磊落」でした。実際、そうした先輩方が多く、手術時間の早さが術後成績を左右しました。それが様々な技術や麻酔の進歩、腹腔鏡手術の登場などにより、現在は「早さ」より「丁寧さ」「低侵襲」が術後成績を左右します。実際、以前では考えられない“80代高齢者に大手術”も今や日常となっています。
一方で変わらないものもあります。それは「いい結果を得ようと思えば、人よりも余計に手をかけて時間を割かなければならない」ということです。新しい技術や知識の習得もそうですが、患者さんを良くしようと思えば、結局「よく診て手をかけて時間を割く」ことが重要です。どんな仕事も同じではないでしょうか?アスリートも受験生も農業も、結局「かけたものが返ってくる」のは一緒のようです。手術も素質(センス)よりも学習の方がはるかに重要です。
弘前公園の桜も、開花時期は変わりましたが、その美しさは変わりません。
50歳過ぎてのラグビーOB戦(救急集中治療科 杉田 学 教授(左)と筆者)
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
第1回
院長・小児外科 教授
浦尾 正彦
私は
朝の渡り廊下が好きだ。ひんやりとした中で朝日が差し込み1日の始まりを感じさせる。私がその感覚を初めて感じたのは外科研修医になりたての頃、夜通しの手術を終えて切除した検体を別棟にあった病理検査室に運んでいるときであった。
炎症性腸疾患の20歳代の患者さんが前夜に急変し緊急で全結腸切除をしなければならなくなった。深夜にもかかわらず外科の先輩たちは何の躊躇もなく集まり整然と手術をこなした。大変な手術で終了したのは朝であった。一番下っ端の私が検体をもって順天堂医院の渡り廊下を歩いていた時、ひんやりとした朝の空気の中、朝日が差し込み私を照らしたのだ。その時私は自分が今後外科医として歩んでいくのだという決意のようなものを強く感じ、なんだかうれしくなった。
その後子供を手術する小児外科医になってあっと言う間に35年が過ぎた。先日、重症便秘の40歳代の女性を手術することになった。この方は子供のころからひどい便秘だったが、どの病院でも「たかが便秘でしょ、下剤飲んだら?浣腸したら?」と言われ続けてきた。40代になっておなかはいつでも妊婦の様でどうにも排便できなくなってきた。通常の10倍近い量で浣腸を行って3kgの排便をしたが腹部膨満は取れない。「本当に3kgですか」と私が驚いて尋ねると、「排便後に3kg体重が減るから3kgです」と。あちこちの専門病院にかかっても対応は同じであり半分あきらめていたが、肝機能障害のために順天堂練馬病院を受診した。腹部膨満が尋常ではないことを感じた内科医は成人外科医に相談。そこから先天的な便秘疾患であるヒルシュスプルング病を扱う小児外科に素晴らしい連携で相談が回ってきたのだ。成人では極めて珍しいが腸管組織検査の結果から神経節細胞が無いヒルシュスプルング病であることが分かった。通常この疾患は乳児期に腸閉塞として発見されるが 無神経節腸管が短ければ浣腸などで何とか排便できるため40年もの間苦しむ事になってしまったのだ。まだまだ小児外科疾患が世の中に認知されていないことを残念に思いつつ、小児外科で手術をすることを決定した。
成人であるが、小児外科で行う結腸プルスルー術を施行した。切除した腸管は研修医の時に持ったのと同じ重さであった。術後経過は良好で、自力で排便できるようになった。「まったく人生が変わりました」と感謝していただけた。外科医冥利に尽きるお言葉を本当にうれしく嚙み締めた。
本日も朝日の当たる順天堂練馬病院の渡り廊下を歩いて病院に向かっている。自分の持てる力を何とか使って患者さんの新しい人生に貢献できるよう今日も頑張りたいと思う。
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。