妙手回春

順天堂練馬の外科系医師によるエッセイ:妙手回春

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第20回
心臓血管外科
嶋田  晶江

『●●さん、ぶどうパン食べたいって言ってるよ』病棟回診を終え、病棟看護師とナースステーションで話をしていた私達担当医に、教授はそう言って去っ嶋田晶江先生ていった。回診の時に『何か食べたいものはありませんか?』と聞いていたのに、うまく聞き出せていなかったと思い知った瞬間だった。
 私は研修医の頃から、教授の外来診察や手術前後の説明、病棟回診などに陪席してきた。心臓血管外科の外来を初めて受診される患者さんの多くは、診察室に入るときにとても緊張し、顔はこわばり表情も硬くなっている。しかし、教授の診察を終えて診察室を出るときには、患者さんもご家族も不思議と安堵した表情を浮かべていた。
診察では病気や治療の話はもちろんだが、仕事のことや趣味のこと、自宅周辺のことなど多岐にわたって話をされていた。そんな中で自然と患者さんとの距離を縮めていたのだ。話の内容が多彩であり、一緒に聞いている私も聞き入ってしまうほどであった。『神の手』を持つ天才外科医は、コミュニケーション能力にも長けていた。外科医として、手術の手技以外にも沢山のことを学ばせてもらったものである。
 手術は外科医の技術だけでは成立せず、外科医を含む医療従事者と患者さんが一緒に手術に立ち向かう関係性が重要である。日々技術を修練するだけではなく、これまで患者さんと経験させていただいたコミュニケーションを活かして今後の診療に精進していきたい。

嶋田先生天野先生天野篤 順天堂大学特任教授(左)と筆者(右)
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第19回】小児外科 田中 奈々

第19回
小児外科
田中  奈々

 先天性横隔膜ヘルニアという病気がある。先天的に横隔膜に穴が開いていて、腹腔内臓器が胸腔内に入り込むことによって胎児期に肺が十分に成熟できないため、顔写真tanaka
生後手術で腹腔内に脱出臓器を戻し穴を閉じても、肺の問題が残る。
昨今の周産期医療の発達により新生児外科疾患は救えるようになったが、いまだ救命率が最も低い疾患のひとつだ。小児外科入局1年目に救命できなかった重症な横隔膜ヘルニアを経験した。家にも帰らずNICUにべた付きになった管理(当時はこの疾患の担当になったら当たり前の事だった)も報われず、自分の無力さを痛感した。そのベビーの顔と両親の表情を今でも覚えている。
その後、偶然も重なりアイルランドへ留学し横隔膜ヘルニアの病因について研究することとなった。留学先のボスは小児外科医として日々の診療、夜間の新生児の緊急手術もしながら、その他の時間をすべて研究に充てており、いつ食べていつ寝ているのか?と思わせるようなひとだった。そして世界の多くの小児外科疾患の基礎研究が、臨床もしている小児外科医の手によってなされていることを知った。
小児外科の分野はまだ歴史が浅く、その疾患を扱う母集団が少ない事も関連していると推測する。小児外科疾患の多くが先天的であり、発生学と病因・病態が密に関連している。臨床現場を知らない研究者ではなく、その疾患の患者や家族の顔、手術所見、術後経過が脳裏にある外科医が研究することに意味があると思いながら、現在わたしは腸管神経の先天疾患であるヒルシュスプルング病の研究を続けている。日々の診療からなぜこうなるのか?どうしたらよくなるのか?という気持ちをもち、外科医として自分の腕を磨くと同時に探求心と向上心を忘れないphysician scientist でありたいと思う。
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第18回】北村 香介(泌尿器科)

第18回
泌尿器科
北村  香介

私の医師として勤務が始まったのは、臨床研修医制度の開始直後でした。制度の変化に対する不安や、泌尿器科としての研修が遅れ手術経験に差がつくことへの焦りを感じ2北村香介ていました。当時は手術の経験を少しでもできるようにと、手術室に足を運び当直を進んで担当し休みをとらずに働いていました(今は働き方改革で推奨されません)。
当時の開腹手術では泌尿器科で扱う臓器のほとんどは術者以外には見えませんでした(前立腺や膀胱・腎臓は体の奥深くにあるため)。助手として参加した際には、筋鈎を引きながら何をしているか見たくて覗き込んでは「邪魔だ!」と先輩術者に叱られるような時代でした。
自分が術者として執刀するようになってからは、手術書の知識と先輩の所作を思い出し懸命に手術をおこない、少しずつ上達することを感じていました。技術が発展し手術の中心が開腹から腹腔鏡になると術中も術後も手術動画を共有できるようになり、手術の予習復習が簡単になりました。腹腔鏡手術技術認定を取得した今では、ほとんどの手術を腹腔鏡でおこなっています。ロボット支援手術の登場や動画デバイスの発展により、You Tubeでも手術動画を見ることでき学会では生の手術を見ることもあります。
時代とともに手術を学ぶ方法は変わりましたが、技術を習得するための気持ちや努力は変わらないものだと思います。「妙手回春」、この言葉に込められるような医師になるため今後も学ぶ姿勢を崩さず、不断前進の思いで日々精進したいと思っています。

研修医当時の筆者研修医当時の筆者
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第17回】坂本 優子(整形外科・スポーツ診療科)

第17回
整形外科・スポーツ診療科
坂本  優子

妙手回春と聞いて思い出す、私の基礎を作ってくださったメンター、千葉県こども病院の西須孝先生を紹介したい。心に残る名言がいくつかある。手足が変形した先天性疾患の赤ちゃん5坂本優子を抱いて不安そうな両親への言葉だ。
「大丈夫、病気の心配は僕らがするから、お父さんとお母さんは、この子の前では、病気のことなんて笑い飛ばせるようにならなきゃだめだよ。こんな風に生まれてどうしようってご両親が思っていたら、家族全員が下向いちゃうから。手のことや足のことを気兼ねなく話題にして、この子と笑顔で話せるようにね。」「この子は、何度も何度も手術が必要かもしれません。でも、僕らは諦めないからね。一緒に頑張りましょう。」「不都合な症状が出る遺伝子は、良い遺伝子と結びついているから、脈々と残っていると思うんですよ。この病気の方は皆さんとてもいい人だし、器量もいいから。」(注:遺伝子を良い、悪いと判断するのは正しいことではありませんし、器量の良し悪しも個人の感想なので、器量の良くなる遺伝子、というのも正しくはありませんが)。
そんな熱い心の西須先生は、手術前にマーキングの代わりに患児の好きなキャラクターを描く。私もそれに倣い、今でも毎回、手術が成功するよう、心を込めて描く。師匠もこんな気持ちで描いているんだなと、思いを馳せながら。

リラックマとゲッコウガ西須先生のリラックマ(左)と筆者のゲッコウガ(右)



妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第16回】野呂 拓史(総合外科・消化器外科)

第16回
総合外科・消化器外科
野呂  拓史

 キリスト教系の幼稚園に通っていたことは関係あるのだろうか。子供の頃から生と死について考えさせられることが多かったような気がする。親兄弟はじめ親しい人間が死ぬことを想像した。 野呂先生
 現在の生活習慣病が、まだ成人病と呼ばれていた時代で、日本人の死因として多かった血管系のイベントは、予防またはリスクを下げることができると親に聞かされて安心した。一方で、原因がよくわからず予防できない“がん”がとても怖かった。がんを治す医者になろうと考えたが、いつの間にかその志は薄れた。
 1980年代から始まったいわゆるバブルの時代。高校では硬式庭球部であったため、大学進学、体育会から一流企業に就職して安泰といったストーリーをうっすら考えていた。
それでも初心?を思い返し、理系に転向して医学部に入学したが、最初はスポーツ医学に興味が向いた。
 臨床実習の時に出会った外科医の強いバイタリティに惹かれて外科医となることを決意した。癌の治療が自分の本意であることを再認識し、消化器癌では一番難敵である肝胆膵の癌を専門とした。
 人間の欲求に関する理論であるマズローの欲求5段階説で、最高次の欲求は自己実現の欲求だという。今と比べると体育会的な理不尽さも色濃く残り、時間の拘束も厳しかったが、その欲求に素直に従った結果が今の自分である。
 これから医師を志す方、若い医師には、是非自己実現の欲求に従って将来のキャリアを考えて頂ければ幸いである。

野呂先生学生時代筆者 医学部6年生次(前列右)

妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第15回】徳川 城治(脳神経外科)

第15回
脳神経外科
徳川  城治

「妙手回春」
この言葉を聞いて真っ先に思い浮かべるのは私の手術の師、北海道の上山博康先生。2徳川城治 妙手回春
この人無くしては現在の脳血管手術の進歩は語れない。さらには多くの弟子たちが教えを受け継いで活躍している。
師は若い頃、この誌面では紹介できないような日々を送って手術の鍛錬を重ねた。
脳神経外科の先達の多くは同じようであったと聞く。時代が違うと言えばそれまでだが、脳外科医としての覚悟もまた違ったのであろう。
師のところには「最後の砦」として全国から患者が集まった。
世間は師を「神の手」と褒めそやしたが、師は「神の手」と呼ばれることを嫌った。
この技術は天から授かったものではない、努力して得たものだ、という自負。「匠の手」である。
天才と呼ばれる人こそ実は人一倍努力をしているという好例だ。
自分も努力をした自負はあるが、師の弟子達の末席を汚すのが精一杯。
私は天才とはほど遠い、平凡な脳神経外科医だ。だが外科の世界は平凡でも生きていける。
天才にしかできない手術で救える命は多くはない。
一般的な手術でも高いレベルでこなすことは実はとても難しい。
「嗜(たしな)みの武辺は生まれながらの武辺に勝れり」-織田信長の言葉と伝わる。
天才から凡才へのエールと勝手に解釈している。
師の背中を追う道に終わりはない。

徳川先生
上山博康先生(左)と
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第14回】有冨 健太郎(整形外科・スポーツ診療科)

第14回
整形外科・スポーツ診療科
有冨  健太郎

私は整形外科医であり、その中でも主に手の病気を中心に診療を行っています。表題である「妙手回春」にも使われている手について感じていることを述べたいと思有冨先生います。日常生活ではスマホをいじる手やパソコンを打つ手、ピアノを弾く手、料理を作る手などが当たり前のように使われており、病気や怪我をして不自由にならない限り手のありがたさを感じることは少ないと思います。
職業柄、すぐに何でも手を見てしまいます。動物園に行ってもサル、ゴリラ、オラウータンやチンパンジーなどの人間に近い動物を見つけると、その手の動きを見ているだけでゾウ、ライオンやトラを見ているより楽しいです。手は動物の進化の過程で生まれてきました。ご存じのように四足歩行から二足歩行になり、前足が手になりました。その中でも人間の手は、人間に近いとされる類人猿(ゴリラ、オラウータンやチンパンジーなど)とも違いがあります。人間の手の最大の特徴は、親指が長く繊細に動くことであり、類人猿より親指を使って上手に物をつまめることです。片手でスマホを使えるのは、人間の特権でしょう。
手は握る、つまむといった機能だけでなく、他の役割も果たしています。1つはセンサーの役割です。五感機能(視覚、聴覚、臭覚、味覚)の一つである触覚です。視覚障害がある場合は、それに変わる重要な役割を果たします。もう一つは表現の手段の役割です。手話や拍手などの例えがわかりやすいでしょう。
以上のように、人間の手には沢山の役割があります。それゆえ故障することもあるでしょう。そんなことを考えながら、毎日約30人の手を診療室で診ています。



ヒトの手 有冨ヒトの手

オランウータンの手 有冨オラウータンの手
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第13回】渡野邉 郁雄(総合外科・消化器外科)

第13回
総合外科・消化器外科
渡野邉   郁雄

 中学生でパイロットになる夢を持った。当時民間航空会社に入るためには自衛隊に進むか航空大学校に進むかであることを調べ上げ、宮崎の航空大学校にアポなしで4渡野邉郁雄出向いた。正門から出てくる航空大学生にどうすれば入学できるか聞いて回った。高校2年になりパイロットになるには身長が足りないことを知った。勉学はお休みしバイトをやりまくって1人でインド旅行に。集めた17万円と片道の航空券のみで渡航した。晴天下のタージマハルを見上げてはじめて大泣きした。2週間の予定だったが見るもの全てが新鮮で結局40日間の滞在。帰国したときの両親はインドの闇市の徘徊より怖かったのを思い出す。
 手塚治虫のブラックジャックの影響で医学の世界へ。病理医を目指していたが何を血迷ったか気付いたら外科医になっていた。回診準備、カンファ準備、手術、検体整理、レセプトに明け暮れた。ミャンマーやネパールで1年間ボランティア手術も行なった。そして時代は開腹から腹腔鏡へ。今やロボット手術の時代となり外科手術も大きく変化した。鏡の奥の自分も大分おっさんに様変わりした。
 時代の変化に負けないハートを持ち続けたいものである。


妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第12回】三橋 立(脳神経外科)

第12回
脳神経外科 
三橋 立

脳血管内治療
 
三橋顔写真 脳神経外科入局時、動脈瘤治療は開頭クリッピング術のみでした。顕微鏡下、動脈瘤を見つけクリップをかける手術は、まさに脳外科医の仕事でした。やっとクリッピングの技術を身につけた頃、動脈瘤治療に血管内手術が有効であるという論文が発表されました。
 これが一大転機となり、動脈瘤治療は血管内手術が最優先となりました。そのため、いち早く血管内手術を専門としていた先輩が『師匠』となり、治療が必要な患者さんが現れるたびに私の病院に駆けつけてくださいました。師匠は、ガイドワイヤーから火花が噴くと巷で噂されたカリスマで、私は、師匠から信頼される助手になるべく、緊急の場合も全ての手術に参加しました。
 数年経過したところ、師匠が前触れもなく「半年後の血管内治療専門医試験を受けるか?」と言ってきました。当時の血管内治療専門医試験は合格率5割の難関で、頼りになる助手が目標であった私は、合格の自信は全くないものの、準備をして受験しました。手応えもなく帰宅した翌日に、師匠から電話が鳴り、「おまえは天才だよ!合格だよ!」後にも先にも、師匠から褒められたのは、その時だけです。
 私の師匠は、最近開業されましたので、この先一緒に仕事をする機会はないかもしれません。先日手術のさなか、後ろから師匠に監督されている気分になりました。師匠ならどうやるか、どこまでやるか、どこで退くか。いつか師匠に褒めてもらえるよう、日々精進するのみです。
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第11回】内山 美津希(形成外科 科長・助手)

第11回
形成外科 科長・助手
内山   美津希 

内山先生 まだ、さほど長くはない自分の医師人生を振り返ってみた。研修医としての試練の日々、あこがれの形成外科医として勤務を始めた初日。そのすべてを今でも鮮明に覚えている。
形成外科医の第一歩を踏み出した4月1日、さっそく一人で当直をしていた。何事もないことを祈りながら夜が明けるのを待っていたが、そうはいかないのが世の常である。
深夜、電話が鳴る。「先生、指を切断してしまった患者さんが来ます。」研修医の時は頼りになる上級医がいたが、もういない。焦る心とは裏腹に冷静な表情を作りながら、いままでの経験と座学で得た知識を総動員し、無事患者さんの指を再接着することができた。
『人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。』これは幼少期の頃から通った母校で繰り返し耳にしていた新約聖書のフレーズの一節で、今も折に触れては思い出す。
目の前の患者さんに向き合うとき、相手が本当は何を求めているのか、いつも思いを馳せる。相手が求めるものをすべて与えられるよう、自分の持てるすべての知識・医術を全力投球していく。震えながら処置にあたったあの日から、奥深くに根付くあのフレーズが私の原動力となっている。
目立たないキズとキレイな機能・カタチを求める人々の心の声に耳を傾けながら妙手回春を目指すべく、私は今日も形成外科医として全力投球で奮闘していく。
内山先生ミッキー
2017年アメリカ形成外科学会総会にて水野主任教授(右)と筆者(左)
妙手回春 (みょうしゅかいしゅん)とは
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第10回】村上 郁(乳腺外科 科長・先任准教授)

第10回 
乳腺外科 科長・先任准教授
村上 郁

村上郁先生 高校生の時、阪神大震災を経験した。四国においても、その揺れは凄まじく、一瞬で眠りから覚めた。被災地の様子をニュースで目にした私は、現地でボランティア活動に参加したい!と父に訴えたが、賛同を得られず(後に謝罪されたが)、歯痒い思いでいた。しかし、全国から殺到したボランティアで混乱が生じ、受け付けてもらえない現状があった。そんな中、医師の参加は求められていた。当時の私は、「医師であれば誰かの役に立てたのかもしれない」と思った。
 医学生時代、生きた臓器の美しさに魅了され、外科医になりたいと思った。激しい腹痛の原因についてCT画像を見ながら推測し、手術で腹腔内を観察するとその答えあわせができ、自分の技術をもって治療を施す。そんなところが魅力だった。乳腺外科医となった今、自分の目指すものは変わっただろうか。
 医療職とは関係のない母に、「優しいお医者さんになって」と言われたことがある。これが、私が医師として働くうえでの軸となっている。がん患者は多くの不安と戦っている。診察への不安、検査への不安、手術への不安、家族への不安、抗がん剤への不安、再発への不安、予後への不安、終末期の不安、、、。その不安をなくすことはできないが、同じ方向を向くことはできる。私は、「自分が乳がんになったとき、頼りたい主治医」を目指している。妙手など、目指していない。今、同じような震災が起こったら、あの時の自分より少しはできることがあるだろうか。
 「耕到天是勤勉哉」日々、研鑽を積む。
1706941817174
乳がんの権威 霞富士雄先生(右)と筆者(左)
妙手回春(みょうしゅかいしゅん) とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第9回】阪野 孝充(呼吸器外科 科長・助教)

第9回
呼吸器外科 科長・助教
阪野   孝充 

呼吸器外科 手塚治虫先生の代表作ブラックジャック。文庫版で再出版された当時、河合塾で理系浪人だった私は夏休みに(浪人には無いはずなのだが)書店で1冊手に取ったらたちまちその世界観にはまり、貯金をはたいて全巻購入し読み耽った。無免許ながら誰もが認める天才的な手術手技を頼りに様々な患者たちがブラックジャックの手術を求めてやってくる。そして彼は手術を契機として患者を感化し、術後の人生にさまざまな形で関わっていく。時には動物や医療AI(50年前にAIの医療介入を予測していた手塚先生の慧眼)の手術までする。法外な報酬金を要求するのはあくまでヤクザな患者だけで、道義を感じれば10円で引き受けたりもする。そう、彼は私にとっての妙手回春の理想なのである。そんなブラックジャックに感化され夏休み?明けから医学部志望に変更し、紆余曲折を経て外科医として生きていくことになった。
 呼吸器外科医として独り立ちしてもう10年以上になる。自分がトップとして執刀した症例も2,000例を超えた。技術はブラックジャックに到底及ばないが、彼は理想であり日々の研鑽の励みになっている。(私の師匠、鈴木健司は現世で一番ブラックジャックに近いと思う)。いくつになっても成長を感じられるのは外科医の特権だろう。
 患者との関係性はどうだろうか。自分が手術した患者は全員、自分の外来で定期的に診察させて頂いているが、外来はいつも朝から夕方までぶっとおし、休憩もとれず正直体力的には手術よりきつい。しかし、自分が執刀した患者は遠い親戚より愛おしく、私にとってはpricelessの財産である。「先生の顔をみると安心する」、「先生、今日も握手」、とこんな私を妙手扱いしてくれる患者も歳を重ねるごとに増えてきた。一方で、いくつになっても外科医としては術後患者の経過が思わしくない時、憂鬱になる(手術は手術、術後は術後、で到底割り切れるものではない。)。そんな時、大勢の患者さん達との会話、言葉で私は救われ、再び外科医として前に進んでいく原動力を与えてもらっている。
妙手回春とは、患者だけでなく外科医も春を感じているのだとつくづく思う。気力体力の続く限り、外科医として世の中に貢献していきたい。
1704954993652鈴木健司先生と 2014米国胸部外科学会にて 39歳
1704955076543陸上自衛隊医官時代 29歳
妙手回春(みょうしゅかいしゅん) とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第8回】荻島 大貴(産科・婦人科 科長・教授)

第8回
産科・婦人科 科長・教授
荻島   大貴

荻島先生現在 小学校5年生から日曜日が無くなった。中学受験の塾に通うためである。その週の課題を自己学習し、毎週日曜日の塾ではテストが行われ、それを解説するスタイルである。日曜日がない生活は苦痛であったが、唯一の楽しみは帰りに駅の売店で買う週刊少年漫画誌であった。当時はジャンプ、サンデー、マガジン、チャンピオン、キングと多彩であった。その中でも一番面白かったのが、少年チャンピオンの手塚治虫「ブラックジャック」と、キングの松本零士「銀河鉄道999」であった。
ブラックジャックはメスを使って病気を何でも治す外科医である。傲慢なお金持ちからは高額な治療費を取るが、善良な人からは取らないだけでなく、小鳥や犬猫までも治してしまう。当時はメスを使って何でも治してしまう姿に憧れていたが、医師になって30年余りが経ち身に沁みる章は「ときには真珠のように」である。この中でブラックジャックは老衰で倒れた恩師、本間丈太郎先生を助けることができなかった。彼にとって、本間先生は少年時期に爆弾でバラバラになった体をつなぎ治し、医師を志すきっかけを作った恩師である。ブラックジャックは全力で治療に挑むが、恩師の老衰には勝つことができなかった。最後のシーンで落ち込むブラックジャックに寄り添うように、聖霊となった本間先生が語る「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんて、おこがましいとは思わんかね」と。
「銀河鉄道999」は、少年星野鉄郎が機械の体である「永遠の命」を手に入れるためにメーテルとともに旅をする物語である。省略するが、物語のテーマは命であり、永遠の命とは子どもを産み、次の世代へ紡ぐことであり、旅を通じて鉄郎はそれに気がつくのである。
近い将来、寿命に関する遺伝子やその仕組みが解明され、永遠の命が本当に手に入る時代が来るかもしれない。しかしながら、限り有るからこそ、「命」が無限大の価値を生み出し、より良い人生を歩むことができるのかもしれない。塾通いで出会った二つの名作により、現在自分は産婦人科医として、命の誕生とそれを支える母親に対する仕事に携わっているのであろう。最後に、シリーズのテーマである「妙手回春」とは、手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなることであるが、子どもにとって母の「手当て」が一番の癒やしの力である。

荻島先生順大卒業時
順天堂大学卒業時
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。

【第7回】武藤 智(泌尿器科 科長・教授)

第7回
泌尿器科  科長・教授
武藤 智

百折不撓
 
武藤先生 私は泌尿器科外科医である。泌尿器科医になってから約30年の間に泌尿器科手術は劇的な変遷を遂げた。私が研修医の頃は、腹腔鏡手術も立ち上がりの頃で、ほぼすべてが開腹手術であった。その後約10年前にロボット手術が登場し、あっという間に中心となってしまった。現在国内どこのグループでも開腹手術は年に10件も無いだろう。ロボット手術はそれだけ歴史が浅く、一部は未だ術式が確立していない。私が専門とする膀胱がんに対する膀胱全摘除術後の尿路変更術、特に新膀胱造設術もその一つである。回腸を遊離し球状に縫合して尿道および尿管と吻合するが、利用回腸が長い、縫合部位が長いなどの問題があり、未だglobalに認められた術式は存在せず、われわれも様々な工夫を日々凝らしている。昔から時々耳にする言葉だが、手術が上手い先生を「神の手」とか表現することがある。ただし、もし神様しかできないような術式であれば、これは手術ではない。十分な鍛錬を積んだ該当する疾患の専門医が、皆同じように結果を達成することができなければ手術とは言えない。ロボット支援新膀胱造設術の術式を確立するためには、十分な医学知識、空間認知能力、外科手技技術力を取得した多くの泌尿器外科医が均等な結果を得られることは必須である。将来を熟思洞察し、皆の衆智を集め、間然するところが無い術式を確立するために、百折不撓の思いで進んでいきたいと考えている。



筆者30代のころ
筆者30代のころ
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第6回】山本 平(心臓血管外科 科長・先任准教授)     

第6回
心臓血管外科 科長・先任准教授
山本 平

山本先生写真この状況はまずい。今までにこんなことはなかった。
それでも容赦なく、神と呼ばれる天才心臓外科医の声が手術室に響く。
「集中しろ。厳しいのはわかる。でも お前にも見えているんだろう?」
今見えている手術の景色、それだけでなく術野に隠れている大事な景色も見えている。
それとも他に何かが見えるというのか。
この厳しい手術の状況だけではないのか?
この患者さんがこれまで生きてきた人生なのか?
患者さんを待つ家族の姿なのか?
この状況が乗り切れなかった時の家族の涙なのか?
それともここを乗り切った時の数年後の患者さんと家族の楽しそうな笑顔なのか?
 
心臓外科医は、うまくいった手術はすぐに忘れてしまう。
当たり前の手術として体は覚えるが、頭の中には何も記憶として残らない。
しかし、うまくいかなかった場面は、決して消えることなく過剰記憶として蓄積されていく。
その記憶ともに、患者さんの姿、家族の姿も焼き付いて刻印されていく。
 
これは、私たちの幼少期から何も変わらない。
病気や事故で亡くなった小学・中学・大学時代の友達・親類との最後の会話、最期のお別れ、その時にその場にいた御家族の姿、御家族との会話、すべて記憶され消えることがない。
仕事として医学を選び、外科医になっても何も変わらない。
このどうにもならない記憶が蓄積されていく。
 
「あの時、もう少し違っていれば」「あの時、もう一手あれば」と日々思い浮かんでは考える。この消えない記憶を乗り越えるために、本を読み、いろいろな事象を調べて、新たな治療や新たな手術をできるように準備をする。
すべては患者さんと家族の笑顔のために。
 
神と呼ばれる外科医から多くのことを教わった。
「俺は、ここで最大で最高の一手を打つ。お前も絶対ついてこい。逃げるなよ。」
この緊張した場面が終わると平穏な日々に戻る。
よくできた仕事は、すべて記憶から消えていく。
 
こんな経験を私は後輩達に伝えられているのであろうか。
自問自答の日々を過ごす。


順天堂大学卒業時 (1)
順天堂大学卒業時
筆者の研修医時代(左)。食道がんの権威+秋山洋先生(右)と
筆者の研修医時代(左)食道がんの権威 秋山洋先生と(右)
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第5回】金 勝乾(整形外科・スポーツ診療科 科長・教授)

第5回
整形外科・スポーツ診療科 科長・教授
金  勝乾  

金先生 バスケットボールの試合が行われているアリーナで一際歓声が上がった。ケガから復帰した選手が途中交代で数ヵ月ぶりに出場した時だ。自分が手術をしてずっと経過を見てきた選手が試合に復帰するのを見るのはスポーツ整形外科医として本当に感激する瞬間である。
整形外科医になりスポーツ整形外科を専門としてきた。縁があってプロバスケットボールチームのチームドクターをやることになったが、先輩からはスポーツに携わるなら現場に行かないとダメだ、そうでないとドクターに何が求められているかがわからないからと教わってきた。そうかな、まあそうだろうと平日の夜や土日に現場に足を運び続けた。子供が小さいうちは妻に文句を言われながら。(今はいないほうが気楽なようだが・・)
現場に行きチームに帯同することによって仲間として受け入れてもらえたのはうれしかった。そしていつもそばにいる医師がきちんと診断をして治療をして選手が復帰していくというプロセスを繰り返すことによって、選手やスタッフから頼ってもらえると感じられるようになり励みにもなった。自分が関わっているチームや選手が優勝したり何かを成し遂げたときにはみんなで喜びを分かち合うことが出来る。これはスポーツ整形外科医としての醍醐味だろう。
医師になり30年以上が過ぎたが、スポーツ医としての知識や技術はいまだ不足と感じる。まだまだ精進しなければいけないと今日も思う。


2019バスケ
バスケットボールワールドカップ2019帯同
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第4回】角田 篤信(耳鼻咽喉・頭頸科 科長・教授)

第4回
耳鼻咽喉・頭頸科 科長・教授
角田  篤信

 角田先生HP掲載解剖は医学の基本ですが分子生物学など医学の先端からみると地味です。ひねくれ者の私は先端分野ではなくマクロ解剖に興味を持ち、臨床の合間に研究をしていました。
 高位頸静脈球症という病気があります。病気というより、生まれつき鼓膜の奥の中耳というところに脳からの大きな静脈が突出する病態です。医者の2年目でその病気の患者さんをみて興味を持ち、研究を進めました。そこで分かったこと・・・そもそも頸静脈球という人類誰もが持っている構造は人間にしかありません。人間はかなり特徴的な頭部構造をしており、それが耳鼻咽喉科の病気や手術に影響することが分かってきました。
例えば耳垢除去は耳鼻咽喉科で毎日のように行いますが、おなじサルでも耳垢を取るのが非常に難しいサル(ヒヒなど)と、容易なサル(クモザルなど)に分かれます。ヒトは中くらいです。また鼻中隔湾曲症と言う鼻づまりを起こすありふれた病気があります。当院では毎週のように手術をしていますが、問題になるのはほぼ人間だけ。犬猫はもちろんサルでも起きません。オーストラロピテクスとかホモ・エレクトスという人達にも無かったと推定されます。進化の過程で脳(前頭葉)が発達したことが鼻中隔湾曲症の発症に関係していると推定されます。100万年後の人類はもっと鼻づまりで困っている可能性があります。元々耳鼻咽喉科は扱う範囲が広いのですが、こんなことも研究対象となる面白い科です。100万年後は花粉症シーズン以外でも耳鼻咽喉科が混雑しているかも知れません。



HP角田先生
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第3回】菱井 誠人(脳神経外科 科長・教授)

第3回
脳神経外科 科長・教授
菱井  誠人

第3回菱井先生 はたと困った。
 「妙手回春」 “手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること”
凄腕でも敏腕でもない私が何を語れるであろうか。
 
 ベッドに私をおいて帰る母を追いかけた病院の廊下。
 病院の前の雑貨スーパーでブリキの玩具を父に買ってもらった日曜日。
 最古の記憶の私は病院の中にいる。
 幼少で気管支喘息を発症した私は病弱であった。いつしか、将来自分は医師になりたいと思うようになっていた。
脳神経外科医を志したのは、当時の脳神経外科教授 石井昌三先生に憧れたからであった。
 病院に寝泊まりした研修医時代。異文化に出会い大きな影響を受けた米国留学。手術に明け暮れた大学病院での日々のなか、主任教授より新設される順天堂大学練馬病院へ赴任の打診があった。現役脳神経外科医としてのキャリアの丁度折り返し地点であった。
 後輩医師と二人での脳神経外科の立ち上げ。大変であったが熱気にあふれた楽しい日々であった。スタッフも増員になり診療体制は安定していったが、あの頃の熱気は冷却していったように思う。私の意識も、挑戦から 継続と継承に変化していったようである。
 
 つい先日、一人の患者さんが外来を訪れた。若き日に全力を尽くして治療した患者さんである。病気の再発であった。
しばし動揺した。あの頃の体力はない。治療も更に困難である。しかし万全の準備を行い、後輩の手も借りて、もう一度この患者さんの治療に向き合いたい。
医者がいて、患者さんがいるわけではない。
 患者さんがいて、医者がいる。
 妙手回春。私にとっての妙手は患者さんであった。
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 
 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第2回】須郷 広之(院長補佐・/ 総合外科・消化器外科 科長・ 教授)

第2回
院長補佐 / 総合外科・消化器外科  科長・教授
須郷   広之

変わったもの、変わらないもの 
須郷先生
 外科医になって早くも32年が経ちます。この間、世の中の変化には凄まじいものがあります。インターネットが登場し黒電話はなくなり「ダイヤルを回す」も死語になりました。私の故郷ではゴールデンウィークに満開となる「弘前公園・桜まつり」が有名ですが、この30年で桜の開花は2週間早くなり、まさに地球温暖化を実感しています。
 外科医を取り巻く環境も大きく変化しました。30年前、手術の美徳は「早さ」であり外科医のイメージは「豪放磊落」でした。実際、そうした先輩方が多く、手術時間の早さが術後成績を左右しました。それが様々な技術や麻酔の進歩、腹腔鏡手術の登場などにより、現在は「早さ」より「丁寧さ」「低侵襲」が術後成績を左右します。実際、以前では考えられない“80代高齢者に大手術”も今や日常となっています。
 一方で変わらないものもあります。それは「いい結果を得ようと思えば、人よりも余計に手をかけて時間を割かなければならない」ということです。新しい技術や知識の習得もそうですが、患者さんを良くしようと思えば、結局「よく診て手をかけて時間を割く」ことが重要です。どんな仕事も同じではないでしょうか?アスリートも受験生も農業も、結局「かけたものが返ってくる」のは一緒のようです。手術も素質(センス)よりも学習の方がはるかに重要です。
 弘前公園の桜も、開花時期は変わりましたが、その美しさは変わりません。



須郷写真
50歳過ぎてのラグビーOB戦(救急集中治療科 杉田 学 教授(左)と筆者)
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。
【第1回】浦尾 正彦(院長・小児外科 科長・教授)

第1回
院長・小児外科 科長・教授 
浦尾  正彦

abm00018742 私は朝の渡り廊下が好きだ。ひんやりとした中で朝日が差し込み1日の始まりを感じさせる。私がその感覚を初めて感じたのは外科研修医になりたての頃、夜通しの手術を終えて切除した検体を別棟にあった病理検査室に運んでいるときであった。
 炎症性腸疾患の20歳代の患者さんが前夜に急変し緊急で全結腸切除をしなければならなくなった。深夜にもかかわらず外科の先輩たちは何の躊躇もなく集まり整然と手術をこなした。大変な手術で終了したのは朝であった。一番下っ端の私が検体をもって順天堂医院の渡り廊下を歩いていた時、ひんやりとした朝の空気の中、朝日が差し込み私を照らしたのだ。その時私は自分が今後外科医として歩んでいくのだという決意のようなものを強く感じ、なんだかうれしくなった。
 その後子供を手術する小児外科医になってあっと言う間に35年が過ぎた。先日、重症便秘の40歳代の女性を手術することになった。この方は子供のころからひどい便秘だったが、どの病院でも「たかが便秘でしょ、下剤飲んだら?浣腸したら?」と言われ続けてきた。40代になっておなかはいつでも妊婦の様でどうにも排便できなくなってきた。通常の10倍近い量で浣腸を行って3kgの排便をしたが腹部膨満は取れない。「本当に3kgですか」と私が驚いて尋ねると、「排便後に3kg体重が減るから3kgです」と。あちこちの専門病院にかかっても対応は同じであり半分あきらめていたが、肝機能障害のために順天堂練馬病院を受診した。腹部膨満が尋常ではないことを感じた内科医は成人外科医に相談。そこから先天的な便秘疾患であるヒルシュスプルング病を扱う小児外科に素晴らしい連携で相談が回ってきたのだ。成人では極めて珍しいが腸管組織検査の結果から神経節細胞が無いヒルシュスプルング病であることが分かった。通常この疾患は乳児期に腸閉塞として発見されるが 無神経節腸管が短ければ浣腸などで何とか排便できるため40年もの間苦しむ事になってしまったのだ。まだまだ小児外科疾患が世の中に認知されていないことを残念に思いつつ、小児外科で手術をすることを決定した。
 成人であるが、小児外科で行う結腸プルスルー術を施行した。切除した腸管は研修医の時に持ったのと同じ重さであった。術後経過は良好で、自力で排便できるようになった。「まったく人生が変わりました」と感謝していただけた。外科医冥利に尽きるお言葉を本当にうれしく嚙み締めた。
本日も朝日の当たる順天堂練馬病院の渡り廊下を歩いて病院に向かっている。自分の持てる力を何とか使って患者さんの新しい人生に貢献できるよう今日も頑張りたいと思う。
妙手回春(みょうしゅかいしゅん)とは
 手を触れれば春になるかのような、凄腕の医師、また敏腕の医師により病気が良くなること。順天堂の3代目堂主であった佐藤進先生は、1895年の日清戦争中に狙撃された清国全権大使の李鴻章の治療にあたり、これを見事に快復させました。和親条約を締結後、李鴻章は扁額「妙手回春」を佐藤進先生に贈りました。そのレプリカは当院の1号館2階初診受付前にも飾られています。